ステレオタイプの上塗りについて

最近、ボーヴォワールと伝記の持つ政治性の授業に出た時に強く感じていたことを思い出すような会話をした。

私は「フェミニスト」や「女性」「女医」に付与されるステレオタイプに非常に敏感だ。自分が女性であることを理由に軽んじられてきた経験や、フェミニズムに関する知識、そして次の世代の女性のために生きやすい社会を作りたいという思いが交錯して、ステレオタイプは(敢えてそれに合致しない選択肢を選ぶというふうにして)多分に私のこれまでの意思決定に影響を与えてきたように思う。

上記授業を受けた時点では、私はフランスにパートナーがいて、当時の仕事の契約期間が終わればフランスに移住しようと思っていた。移住して、生活費はパートナーに頼りつつフランス語の勉強と英国医師免許取得の準備をするつもりだった。医師免許が取れたら私は英国に戻って、英国とパリで数年の遠距離恋愛をしながら経験を積み、最終的にはフランスで臨床医として働きたい、と思っていた。今思い返しても壮大な人生設計だのだが、パートナーもこれに賛成していたしお金は気にしなくていいと言ってくれていた。それにも関わらず、言葉の話せない国に行って誰かに経済的に依存するという状況が私はどうしても受け入れられなかった。

受け入れられない理由には、私の生育環境に加えて、ステレオタイプに陥りたくないという思いが強くあったと思う。医学部受験で女性が差別される国で医学部に進学して、せっかく医師になったのに、ここで専業主婦になってしまっては「女性には仕事が辛くても結婚という逃げ道がある」「女医はすぐに辞める」「女医は働かない」みたいなステレオタイプを上塗りすることになり、同世代・次の世代の女性たちに迷惑をかけてしまう、という考えが心に重たくのしかかっていた。友人や先輩の個人的な選択には、たとえそれが「ステレオタイプの上塗り」に該当する選択でも何とも思わないのに、自分に関しては、ステレオタイプを破壊し続けることを義務のようにすら感じていた。医師であることがアイデンティティの一部になっているのに仕事を無期限に離れてしまうことも少し苦しいと感じていたが、それよりも自分の選択が他者へ与えうる影響について考えるたびに生まれてくる自責の念が苦しかった。社会を変えたかったのに結局社会に飲み込まれてしまうのか、これは私が望んだ人生だろうか、と自問した。

上記の授業では、それが義務ではないこと、たとえ私が熟考した上での決断が私の属性に対するステレオタイプをなぞるものであってもフェミニズムの観点からも問題のないこと、を講師がボーヴォワールの人生や思想をもとに説いていて、急に視界がひらけたように感じた(もちろんフェミニズムは一枚岩の思想ではないので別の帰結をもつ議論もあるだろうけれど)。ステレオタイプ的に振る舞うことについて、あまり自分を責めることもなくなった。結局色々あって今は別のパートナーとお付き合いしているが、今後も自分にとって好ましい選択と社会に存在する構造的差別や不正義の問題とは切り離して考えられそうだ、と思う。

同世代の女性には関心のある話題かもしれないと思って書いてみた。人生には大なり小なり決断がついてまわる。社会の構造的不正義に知識があればあるだけ、それが足枷のように作用することもあるかもしれないが、一番大事なのはあなた自身の幸せや選好であることを忘れないでほしい。

日本は遅れてる、という表現を使わないで理想的な在り方の話がしたい

オリンピック委員会会長の森氏の発言があまりに無知で時代錯誤なのは事実だけれど、それを糾弾するときに結構使われている「海外では許されない」という言い回しは、置き換えた方が良いと思う。

「海外(/先進国)では〜なのに日本では〜(/だから日本は劣ってる)」みたいな表現を見ると私はいつも渋い顔になる。こういう表現は、フェミニズムのほか、人権、動物倫理、環境問題に関する議論一般でもよく見かける言い回しで、「海外」が実質「北西ヨーロッパと米豪新加のリベラルな地域」を指してるのは分かっているし、実際は「〜の国では〜(人権や科学など)の理由に基づいて〜という政策が取られている一方で、日本では〜(人権や科学など)を無視して〜してるところがだめ」を短縮してそういう表現になってるのはわかっている。わかっているし、根拠が何であれ現状を変えたい気持ち(しかも「海外」が含意する国々が実践してる方向に)は私も共有しているのだから、そこだけ無視すれば良いのだが、見なかったことにできないくらいこういった類の表現をよく見かける。こういう議論の時に突然「海外」の定義からこぼれ落ちる国々のことがすっごく気になるし、ちょっと北西欧の価値観を手放しに賞賛してるように感じられて、もやもやする。


日本に戻ってきて、人気の記事や大拡散されてるツィートには(そもそも身の回りにフェミニズムや菜食主義の話ができる人がいない)、「西欧ではこうだからこう」という表現が含まれてることが少なからずあって、その「〜国や〜国においついた先」のヴィジョンがないのが気になっている。別の国や地域を引き合いに出すことなく、理論を拠り所に理想の世界についての話がしたいなと思う。

Hello Kitty Sign Positive – Do hello kitty sandals suggest unprotected sex with multiple partners?

I wrote this post on 24/7/2017


Empirical studies suggest that gender, racial or age biases exist in a significant number of clinicians, resulting in an error in clinical diagnostic reasoning. (Reference: IS MEDICINE’S GENDER BIAS KILLING YOUNG WOMEN? or Eliminating Gender-, Racial- and Age-Biases in Medical Diagnostic Reasoning)

Physicians are often compared to detectives. Sometimes, biases clouds our judgements, and other times, they work well to detect diseases early. For example, your clothing and belongings tell a lot about your financial status, cultural background, health status and educational level. Here are some cases:

If a patient….S/he may….
Shows up with a suitcase filled with clothing and basic toiletriesHave had hospitalised many times
Sees a doctor in pyjamas in daytimeHave a chronic disease
Wears an expensive suit with a stain on his collarBe having an ongoing financial difficulty
Working clothes, Suits, etcSuggests Occupation
Patterns of the tie he wearsSuggests his hobby
Women wearing scarfCould be hiding her enlarged thyroid
Many zips instead of buttonsMay have progressive joint pain and having difficulty making fine movement
Loose beltsRecent weight loss
Unseasonable clothesThyroid problems
A sandalSuggests arthralgia, trauma, gout, etc
Loosened shoelacesSuggests foot oedema, inflammation
Extra belt loopAscites, Weight gain, etc
Many candies in their pocketsMay have diabetes and taking insuin
WritingSuggests Parkinson’s disease
Time printed on receiptsSuggests where they were and what they did
Many receipts of barsRaise Alcohol abuse as a differential diagnosis
Picture on their driving licenseCould be a clue to diagnose acromegaly
Magazines, BooksSuggests patients’ educational level

To what extent are they appropriate, and what kind of guess is inappropriate? Some doctors I know talk humorously (or sometimes flippantly) about glasses and sandals with hello kitty print. They call them “Glasses sign positive” and “Hello Kitty sign positive.” The former is for elderly patients and suggests they are getting back to their baseline cognitive and mental ability and are starting to read papers/ watch TVs/ communicate with their family. It is a good, harmless guess. But the latter is problematic and inappropriate, in my opinion.

According to the doctors who like to say the flippant remark, ‘Hello Kitty sign’ is used to refer to young women wearing the flashy Hello Kitty Sandals (‘キティッパ’), and they indicate their casual, unprotected sex with multiple partners. Therefore the pretest probability of sexually-transmitted diseases or ectopic pregnancy is high.

I go against them primarily because that bias could easily go beyond medical context and lead to prejudice. The guesses listed above are not only harmless but also actually useful. On the other hand, guessing somebody’s sexual activities is often unnecessary because with or without the guess, we need to do some blood test/ micro-organisms test/ pregnancy test or whatever if we think it is relevant to the symptom. If we test them anyway, what is the point of speaking ill of and making fun of patients at their back, by saying ‘By the way was her Kitty sign positive?’ In Japan (and elsewhere in the world too?), where the victims of sexual assault are blamed for what they wear, sexual harrassement is all too common, and having a polygamous relationship is considered to be bad, this stigma could quickly lead to a grave consequence.

Although the flashy hello kitty sandals are often associated with low educational level and bad taste in clothing by non-physicians too (might be actually the social consensus), I think that reinforcing the image with stronger and highly personal issues as a medical doctor is potentially harmful and unjustifiable.


As a side note, this kind of ‘sign’ does exist in other countries too, and one famous example is Teddy bear sign. Does the teddy bear sign predict psychogenic nonepileptic seizures? evaluated whether adults and older teenagers who bring toy stuffed animals to an epilepsy monitoring unit, i.e., the ‘teddy bear sign,’ were more likely to be diagnosed with psychogenic nonepileptic seizures than with epilepsy. Although this research is interesting, they conclude that patient possession of toy stuffed animals in the EMU is not a reliable sign of PNES.

Also while I was looking for the website to explain Teddy Bear Sign, I came across this blog introducing other signs: Incidental findings. And this Don’t become a doctor series is great. I can’t agree more, except for the title of the series don’t-become-a-doctor.

与謝野晶子「女らしさ」とは何かを読んで

与謝野晶子の「女らしさ」とは何か、を読んだ。これは1921年に書かれたエッセイで、恋人の日本語の練習のために青空文庫で本を探しているときに見つけた(ちなみに恋人とは「ごん狐」を読んでいる)。少し長いが、書き出しから非常に痛快なので見てほしい:

日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万流流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、動もすれば、新しい現代の生活を呪詛して、黴の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、現実を正視することに怠惰であると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。

「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子

当時、女子解放運動を「女子の中性化」と揶揄する動きが盛んにあったようで、これはそれに対する抗議として書かれた文章らしい。

そもそも社会制度的に女子を教育から締め出し挑戦の機会すら奪っておきながら、教育を受けさせたところで「『女らしさ』というものを失って、女ともつかず、男ともつかない中間性の変態的な人間が出来上がるから宜しくない」と早くもその結果を否定するのは憶断も甚だしい、と彼女は言う。

それに続き、「女らしさ」が女性の至上価値となってしまっており、「女らしさ」を欠けば他にどのような優れた性質があろうともその女子の人間的価値がゼロとされてしまうことへの疑問が呈されている。

そして、妊娠以外には男女間の分業の領域は流動的であること、愛や優雅やつつましやかさといったものは女子だけでなく人間全体に共通して欠くことのできない人間性そのものであること、無常・冷酷・生意気・粗野などの特徴は男子においても許し難い欠点であること、などについての言及がある。

なかでもとりわけ、百年経っても同じ議論が続いていると思ったのは、妊娠にまつわる話だった。妊娠できるのは女子だけ、というのは間違いないが、妊娠に至るには男子の協力が不可欠なうえ、子育ては二人の愛と知性と労働が合わさって初めて可能になるのに、社会はこれまで母性に不当に重荷を課して来た、従来あまりに父性がないがしろにされて来た、というのだ。父性と母性の両方に子育ての責任を分担することへの強調が、百年経っても未だに日本で必要とされていることに、悲しみを禁じ得ない。

女は妊娠出産を経て一人前、というような、時代錯誤も甚だしい概念を政治家が口にしているのを見かけるたび、事の深刻さにため息が出るのだが、百年前は今よりもっと状況が酷かったのだろう。与謝野晶子は、女がそうなら男だって子供がいない男は一人前じゃないはず(なのにそう言われないのはどうして?)、実際は結婚しても様々な理由で子どものいない人はたくさんいる、結婚はしてもしなくても良い、こどもも作っても作らなくても良いのだ、男子も女子も適材適所が望ましい、個人の自由意志に任せるべきだ、そして私は結婚もしない子どもも作らない人たちが人類の中に「まじっている」ことを望ましいこととして肯定する、と言っている。

「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉して甘受しても好いと思います。

「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子

明るみにでた医学部入試差別のような件があるとは言え、日本は百年前よりは女性が随分と生きやすい社会になったと思う。与謝野晶子については高校の授業を通じて名前や短歌を知っているくらいで、彼女の書いたエッセイを読むのはこれが初めてだと思うのだが、もっと早くに読みたかったなと思う。

百年というと、うんと昔のことに感じられるけれど、そう言えばミルのThe Subjection of Womenはもっと昔(1869年)に刊行されているし、人々の意識を変えるには百年くらい時間がかかるのかもしれない。

詩織さんのこと

菅官房長官が“山口敬之氏への資金援助”を企業に要請の報道が! 詩織さん事件で逮捕を止めた警察官僚も菅の右腕だったが…

詩織さんのことは、彼女が外国人特派員で会見をした頃からずっと応援している。これだけの目に遭いながら、他の人が同じ思いをしないようにとレイプにまつわる日本社会の医療的・法律的・文化的問題点を浮き彫りにしたBlack Boxは、彼女のジャーナリストとしての素質を存分に発揮した素晴らしい本だった。

「そういうものだから」と加害者への責任追及を諦めて心に蓋をすることだけでも耐え難いほどの苦痛なのに、顔と名前を出して淡々と事実を記した本を執筆した彼女の不正義に立ち向かう強さを私は心から尊敬している。(反対に、山口氏のことは心の底から軽蔑している。)

だから、昨年の終わりか今年の初め頃に、山口氏が名誉毀損等で詩織さんを訴えるというニュースを見たとき、はらわたが煮え繰り返るようだった。私は怒りっぽいので、普段から何らかのニュースに憤慨することはままあるけれど、この時は本当に絶句した。山口氏がどう動こうと彼女の正しさは揺るがないのだが、どこまでも狡猾な彼が高額を提示して反訴をするくらいだから、もしかしたら裁判の結果は残念なものになる可能性もあると思った。

最近、父親に何年にもわたりレイプされ続けた女性が父親を訴えた裁判で、裁判所がレイプの事実を認定したにも関わらず、「同意があった」として無罪になった例があった。こんな信じられない判決が下るような国だから、なんだってありうる。

Black Boxが出版された当初は、いわゆるネトウヨが、彼女の書き記したレイプ被害を矮小化して彼女のことを散々に罵倒しているのを見て、加害者の山口氏が安倍首相と仲が良いことにあまり焦点を当てて欲しくないと思った。性被害者を取り巻く環境や性被害者の気持ちを考えたこともないような人たちが、彼女の主張を政治問題として寄ってたかって糾弾するのが全くもって許せなかった。

でも、なんと昨日、山口氏の逮捕状が理由なく取り下げられた時の刑事部長だった中村氏および菅官房長官と山口氏との関係が報道された。どうやら菅官房長官が山口氏に金銭的な口利きをしていたらしい。そして、中村氏は菅官房長官の元秘書。こうなると、紛うことなき政治問題だ。ネトウヨは正しかった!(真実は彼らが信じたいこととは正反対なんだけど、現政権を揺るがす政治的大問題という点において)。

政治的権力を有する人物らと親しい間柄にある人間や、社会的地位の高い人間は、(立場の弱い人間を相手に)性犯罪を犯しても罪を償わない。先日亡くなったジャニーズ事務所の社長もその例。

こんな不正義がまかり通って良いのだろうか。どうか、詩織さんが判決で報われますように。一刻も早く、詩織さんの心に平穏が訪れてほしい。

伊藤詩織さんが、法廷で争う男性と4年ぶりに対面 話を直接聞けて「良かった」

6時間の口頭弁論 伊藤さん「痛みで目が覚めた」、山口さん「なだめる気持ちで誘いに応じた」

詩織さんの民事裁判を支える会