DNACPR

誤嚥性肺炎で入院した人が誤嚥窒息で亡くなった可能性があるため家族が訴訟に至ったという日本のニュースを読んだ。このニュースについては情報が少なすぎて何も判断できないが、興味深かったのは、Twitterで日本で働く医師それぞれが独自のDNAR解釈を披露していたことで、少なくとも英語圏では統一解釈されているものが日本では違う解釈がされているようだと思った。

特に気になったのは、「DNARは原疾患の悪化にのみ適応できる概念で、予想外の方法で患者が心肺停止に至った場合には心肺蘇生の対象である」と思っている人が多そうなことだった。

英国では、何か重大な背景疾患があったり、frailtyが高かったり、また単に高齢で入院中になんでも起こりうる場合には、入院時にDNACPR (Do Not Attempt CardioPulmonary Resuscitation – DNAR をより厳密に定義したもの)とTEP (Treatment Escalation Plan)を患者さんに確認する。心肺停止に至る・治療のエスカレーションが必要な状況に至る理由がなんであれ、一旦そこに至ったらこれらの書類は有効である、というのが、少なくとも英語圏では統一されたDNACPRやTEPの見解だ。

あとこれは英国では医学部でも徹底して教えられるのだが、DNACPRやTEPは患者さんに説明はするものの最終的には医師の医学的判断で妥当性が決まるので、患者さんはDNACPRに同意することはできても要求することはできない。TEPも同様で、医学的適応がないなら、どれだけ本人・家族が希望しても集中治療やそれに類することは提供しない。

説明方法は、かなり医師や対象の患者さんによってまちまちで、「これは我々医師からあなたを守るための書類です」みたいに医師が冗談めかして笑いながら説明していることもあって、いつ聞いても勉強になる。

DNACPRについては、英国には標準化されたReSPECTという書類があって、およそ半分から2/3の組織がこのフォーマットを使っているらしい。

TEPは病院ごとに微妙に問う内容が異なるようだが、馴染みある前勤務先ではたとえば、Full Escalation (必要があればICU治療も含む)が適切かどうか、不適切な場合には、末梢点滴・血液製剤の使用・NIPPVの使用などについてYes/Noにチェックをつける。

日本ではDNACPRを誰が決めるのかという問題があるようだが、英国ではGPか入院時に初診を担当した医師が決めることが多い。癌の治療後にBSCになった人の場合には腫瘍内科医など長く担当している内科医が決めることもあるようだが、基本的にはGPか入院時に診察する医師だ。伝統的には、それを記載した書類を患者さんが入院時に毎回持参する制度をとっていたが、この頃は、GPと基幹病院とで電子化されたデータのやりとりができるため、一旦DNACPRが適切だというアセスメントがなされると、それが共有データにアップロードされ、救急隊もそれにアクセス可となる。

英国のことなのでもちろんCPRに伴うコストを気にして医療費削減目的にこれを推進しているという面もあるとは思うが、それ以上に、CPRに伴う患者さんへの害が(少なくとも医療者の間では)広く認識されている。本人や家族が最後までできることは全部やってほしいというから、などの理由で、適応のない人に形だけCPRをする、というようなパフォーマンスは、誰のためにもならないのでやらない。英国にだって、「できることは全部やってほしい」人や、「自分はファイターで、ずっとこうやって病気と戦ってきたのだから、勝算がなくともCPRしてほしい」というひとはいるが、医師は入院中、または入院のたびに、適応がないことを何度も何度も説明する。繰り返しになるが、患者さんや家族は適応のない治療(CPR含む)を要求することはできない。

研修医1年目の時に救急科で、老人ホームから運ばれてきたfrailtyの高い痩せ衰えた高齢男性で1年目研修医でも絶対に助からないことがわかるような人に、家族がくるまで・家族への説明が終わるまでアリバイのようにCPRをさせられたこと(そして家族が入室した段階でCPRを止める)が非常に不服だったのを今も覚えているのだが、英国で研修していればそんなことはまず起こらない。

また内科で働いていたときに、脳梗塞を発症して以来ずっと寝たきりで意思疎通もできず経管栄養で全身の関節が拘縮していてfrailtyがかなり高そうな80代の人(家族の強い希望でフルコード)の治療方針に関して上司に「そこまでやるのか」という質問を(もっと婉曲な形で)したら、「先生は何様のつもりなのか?先生に決める権利はない」と怒られたを今も覚えているのだが、国が違えばこの質問は妥当というかもはや「そこまでやらない」が基本方針として決まっているようなことに関して議論すら許されない土壌というのは不健全に感じる。医学的適応があることと制度的に可能なことの区別が必要な場面が日本にはたくさんあるように思う。

英国の救急科・内科では、日本では日常に過ぎなかった、高齢・寝たきりの人を診察することがほとんどなくて驚いた。ADLsがかなり悪いひとは病院に搬送されないでGPや訪問看護師など地域の支援のもと、内服治療にトライした後に自宅や老人ホームで亡くなるのだと思う(緩和ケア科で働いていた時にそういう現在進行形に刻一刻と死を迎えつつある人の訪問診療も何件か担当した)。Twitterを見る限りでは日本によくありそうな、本人と意思疎通ができないから家族にコードの相談をして、家族が「できることは全て」と希望するのでフルコード、という流れもない。そもそも大切な人の最期をどうしたいかと聞かれて「できることは全て」と言いたくなるのは当然なので、そこは医師が専門家としての能力を発揮して「患者さんの身体が頑張る限りは我々もサポートするが、CPRは適応がないので心臓や肺が止まるまで状況が悪くなったら、無理なことはやらない」みたいに評価・方針を矜持を持って提示するところじゃないのかと思う。

特に現住所に引っ越してきてからは日常的に自分が外国人であることを意識する機会があって疲れてしまうが、死ぬことにかかる制度運用については日本より英国の方がうんと自分にあっていてストレスがない。英国は医療崩壊しているので、何か重病を患ったら日本への本帰国もありうる選択肢だなと思っているが、死ぬ時は英国がいいなと思う。

Author: しら雲

An expert of the apricot grove

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