マイクロアグレッション

Microaggressionとは、悪意の有無にかかわらず、日常的に表れる差別的な言動のことをいう。

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大学生のとき、オランダで23カ国から集まった学生とキャンプをした。それは私にとって、日本に興味がなく日本についての知識もなく日本人と会ったこともない外国人との初めての濃厚な接触といえる経験で、さまざまなマイクロアグレッションを受けた。日本から来たと言うと「僕はアジアが大好きだ」と言ってずっとタイの話をする男の子、日本を中国の一部だと思っている女の子、何度訂正しようとも私のことを「中国人の女の子」と呼んでくる女の子、ニイハオと挨拶をする知らない人や店員、つり目のジェスチャー、中国語を真似た音を面白おかしく発音する。一つ一つは大したことがないし行為者に悪意がないのもわかるのだが、これらの根底にある「黄色人種は皆中国人」「ヨーロッパと対比してのアジア(広すぎる)」「中華もタイ料理も和食もインドカレーも全部アジア料理(広すぎる)」というアジアへの圧倒的無関心に大きなショックを受けた。自分がマイノリティであることを自覚する日々の連続で、(私以外に唯一のアジアからの参加者である)香港の女の子や、日本を旅行したことのあるチェコの男の子、兄が日本人と結婚したというポーランド人の女の子など、ごく一部の日本に理解のある参加者の存在はとても心強かった。

人種に絡むマイクロアグレッションとして次のような例がある:

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障害

「障害(Disability)」に関する歴史は長い。ヒポクラテスはOn the Sacred Diseaseで、障害は神聖なものではなく他の病気と同じように原因があるはずだ、と述べているし、アリストテレスは身体的障害のある子どもが生きないで済む法律があれば良い、と書き残している(Politics VII)。

障害と聞いて何を思い浮かべるだろう。日本では毎年、「24時間テレビ」の時期が来るたびに、チャリティや「障害者」の扱いが広く人々の話題に上る。その多くは、「テレビが障害者を食い物にして収益を得ている」「障害者は健常者のインスピレーションではない」というテレビ番組の障害者の扱いに対する抗議と、「やらない善よりやる偽善」といったテレビ番組がもたらす最終的な利益の擁護とのせめぎ合いのように思う。

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医師のプロフェッショナリズム

Advancing medical professionalismという研究報告会に参加した。Royal College of PhysiciansとHumanitiesの研究センターが共催したもので、プロジェクト発足は2005年に遡る。医師の職業的役割における自己の位置付けや達成感、そこから生じる価値観は、モチベーションとして非常に重要なものだが、いかにして現代医療の現実を医学生や若手医師に教育すべきだろうか?という疑問から研究を重ね、チームは次の7つの重要な側面に焦点を当てた:

  • Doctor as healer 治す者としての医師
  • Doctor as patient partner 患者のパートナーとしての医師
  • Doctor as team worker チームワーカーとしての医師
  • Doctor as manager and leader 管理者・リーダーとしての医師
  • Doctor as learner and teacher 学習者・教育者としての医師
  • Doctor as advocate 提唱者としての医師
  • Doctor as innovator イノベーターとしての医師

具体的には、リンク先のパンフレットに非常にわかりやすくまとめてあるので、そちらを参照してほしい(気が向いたらこの記事に書き加えるかもしれない)。

Doctor as a person

プロジェクトのメンバーがかなり強調していて、参加者の関心も高かったのは、doctor as a person ひとりの人間としての医者という立場だった。医師はしばしば、「医師としては…」という言葉遣いをする。病院に限らず、時にそれは、教会だったりスポーツジムだったりする。医師としての生活と、個人的な生活は、結構境界が曖昧だったりする。こういう場面では、医師の「自分はこうである」というself identificationと、社会からの期待 social expectationとに焦点を当てることで、professionalとしてどう振る舞うべきかが見えてくる。

そういえば私の恩師は私が医師になってまもない頃、研修医を呼び集めてプロフェッショナリズムについてお話されていた。同期研修医が起こした事件に対する誡めとして開かれた会で、私はよく覚えている。医師に対する社会からの期待は大きい、あなたたちはそれを背負っている、そういう自負を持って、間違ったことはしないように、勤務外でも矜持を持って生きなさい、というような内容だった。国が変わっても医師としてのプロフェッショナリズムのあり方は変わらないということだろう。

また、ひとりの人間としての医師としてのself-careにも強く重点が置かれていた。Doctor as healerにも関わることなのだが、共感や慈悲のこころを十分に発揮するためにはまずは自分のケアをする必要がある。医師に限らず他者をケアする職業では自己犠牲が美徳とされがちな印象を抱くが、時代は変わってきているのだろう。

ちなみに、研修医の労働時間短縮がプロフェッショナリズムに及ぼす影響(ベテラン医師はしばしば研修医の労働時間短縮を良く思っていない)について質問してみたところ、人間は自分より若い世代をけなす傾向にある・self-careとしての自分の時間は大切なので週100時間勤務のようなことは避けるべきだ、との回答だった。ちなみに私の横に座っていた白髪混じりの中年男性は、私の質問中何度も強くうなづいていた。おそらく研修医は週100時間働くべきと思っている世代の医師だが、この回答をどう思ったのだろう。

Doctor as advocate

advocateの適切な訳語が私にはわからないので、とりあえず提唱者と訳してみるが、advocateには、唱える・推奨する・弁護する・支持するなどの意味がある。提唱者としての医師ときいて、何を思い浮かべるだろう?

提唱者とは「他者を代弁して発言し、彼女らが彼女ら自身のために発言することを助ける者」のことである。プロフェッショナリズムは、医師が、自らの現在および未来の患者を代弁して発言することを要する。提唱は個々人の医師および医療団体によって行われる。

Doctor as advocate, Advancing medical professionalism

意外なことに、パンフレットでまず述べられているのは、医療事故の際に誠実であること。advocateと聞いて私が最初に思い浮かべたのは、たばこのリスクや運動、食事に関する注意だったので、promoting patient safetyとして医療事故の予防やその対応が述べられているのは思惑違いだった。ただ、たばこや運動、食事についてはその後にしっかり述べられていて、ここで目を引いたのは、貧困問題やシートベルト着用、環境問題についても言及されていることだった。医療事故から始まって、シートベルト着用のような少なくとも日本では医師の仕事ではない提唱や社会規模の貧困、地球規模の環境問題まで話が広がるのに、それを全て promoting patient safetyとしてまとめあげているのがなかなか良い。

私は医学生の頃から、医師に関係のない社会問題はないと思ってきた。シングルマザーの貧困も、いろいろな種類の差別も、過労死が蔓延するような労働環境も、環境破壊も、世の中に「問題」として現れるもので人間の関与しないものはないので、誰かの精神あるいは身体の健康管理を理由に医師が社会問題に介入するのは妥当だと思ってきた。そう思ってきたとはいえ、医師のプロフェッショナリズムとして地球温暖化規模のスケールの大きな問題に付言しているのを目にするのは初めてだったので少し驚いた。

近いうちにブログに書こうと思っているのだが、私は最近、Effective Altruism(EA;効果的利他主義)に非常に興味を持っている。実際に少額ではあるが寄付も始めたので、Effective Altruistと名乗りたいところだが、まだ勉強が足りないのでそれは控えている。日本ではEAが受け入れられる土壌が整っていないように思われるが、Doctor as advocateという概念とEAは非常に相性が良いので、英国では若手医師や医学生にも積極的に働きかけることでより多くの潜在的なEffective Altruistsを発掘できるかもしれない。

インターセクショナリティ

インターセクショナリティとは、人種や階級・性別など複数の社会的な分類の交差による抑圧のことで、複合して差別や社会的不利をもたらしているためそれぞれを独立には検証できない、という概念で、1989年に法学者 Kimberlé Crenshawによって用いられ、その後フェミニズムで発展してきた。

Can We All Be Feminists? は昨年9月に出版された本で、複数の女性のインターセクショナリティについて扱っている。フェミニズムについてよく言われるのが、フェミニズムとして語られる内容の多くが、白人、中流階級、シス・ジェンダー(身体の性と性自認が一致している女性)、健常者、のもので、そのほかの女性の体験を無視している、というもの。人種、階級、移民か否か、性的指向、文化、障害の有無などによって、社会からの構造的抑圧や差別の程度が全く異なる。この本もそういう具体例を取り扱っていて、この概念を理解する上で非常に参考になった。

私自身もアジア人で女性であるというインターセクショナリティを持つので、この概念の意図するところはよくわかるし、自分と異なるインターセクショナリティについてもその存在を理解することはできるが、時にインターセクショナリティが包括する内容の幅広さに驚かされる。例えば、歴史的な背景・妊娠など性別による理由・貧困など金銭的理由により米国の黒人女性は太りやすいため、太っていることは米国における黒人女性のアイデンティティであり、フェミニズムは肥満を受け入れなければならない、というもの。医師には「病気」として捉えられる状態も、ある文脈では「個性」になるというのは、障害についての Bad-Difference and Mere-Difference や、Social model, Medical model, value-neutral model and Welfare model のことを想起させられる。

これに関連して、この前読んだのはSally Haslanger の Gender and Race: (What) Are They? (What) Do We Want Them to Be? という論文。

この論文は、「人種とは何か」「ジェンダーとは何か」という問いに対するアプローチとして、コンセプト的、記述的、分析的な手法を紹介した上で、分析的な手法(人種やジェンダーの定義を「こういうコンセプトがある目的は何か」というような問いに置き換えて考える)で論を進めてゆく。「女性とはXXX」というとき、必ずその定義からもれてしまう女性がいるということに留意しつつ(例えば「女性とは子宮をもっていること」と定義すれば、子宮摘出術後の女性やトランスジェンダーの女性は女性ではないことになってしまうし、「女性とは社会から構造的に抑圧されているひと」といえば、米国の黒人男性は警察からの暴力に遭いやすいという点で女性に含まれてしまう)、ざっくりした概念として、人種やジェンダーを、「被抑圧」「生殖」「社会的に不利な立場」によって特徴付けられる社会的なコンセプトとして説明しようとする。こうしてざっくり説明することで、虐げられているグループに光を当てたら、社会の不平等の解決に貢献できるのでは、というのが背景にある考え。人種もジェンダーも社会的に作られた便宜的なもの(どちらも自分では選べないのに、どんな風に表現するかには抵抗したり変えたりできる。そして、ジェンダーも人種も階層的。)で実際には存在しないのにも関わらず、私たちの政治的・個人的アイデンティティを形成している、と言及した上で、ここで重要なのは、どのような単語を使うかとか、どういう単語を使うべきか誰が指示するかとかの問題ではなくて、私たちが私たち自身をどのように捉えるか、そして我々が何者なのかと言う問題である、と言う。論文の中で彼女は、男性とか女性とか、人種とか、そういうカテゴライズは全部拒絶して、規範的推論を導くこと、critical social agentsを鼓舞することに貢献することを提案する。

これに近いのがJudith ButlerのGender Scepticという考え方。フェミニズムが対象とする「女性」には様々な人がいて、「こういう人たち」といった定義はできない(インターセクショナリティのところで書いた通り)から、フェミニズム運動は目的がみえない、と主張する。それとフェミニズムの歴史は抑圧に対抗するところから始まったのだけど、「女性」を定義することによってそれがまた別の抑圧に加担するならば、それは全然好ましいものじゃない。

私はまだこの問題にどう対処していいか思いあぐねている。Haslangerの実存主義者みたいな文言は気に入っているし、「女性」を完璧に定義するのは不可能だというのにも同意する。ただ一つ言えるのは、完全に境界線を引くのは難しいけど、確実に「女性」に当てはまる人のことは同定できるということ。ハゲ頭のパラドックスという古いお話があって、

「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)これを繰り返して、「よって全ての人はハゲである」(結論)を導くパラドックスなんだけど、

同じように、「絶対に女性である」と確信できる人々がいて、その人々が社会的抑圧(性犯罪、同じ経験年数の男性と比べて給与が低い、医学部に入りづらい、など)を受けているならば、少し大雑把でもいいからカテゴライズして可視化して問題に対処しやすくする、というのはありだと思う。

フェミニズムがどこへ向かうのか、私たちの考える理想の社会に男性・女性・人種・民族などの区分はあるのか、私はまだ決められないことが多くて自分の意見を保留にしている。

トークンとしての女性

Three Cheers for the Token Woman! (*1) という論文を読んだ。これは、アカデミアの哲学カンファレンスに「形だけ」女性を増やすことの有用性についての論文。哲学者なので、アカデミアの哲学カンファレンスに限った話になっているが、広く多くの事柄に当てはめられる内容だと思う。

アカデミアには女性哲学者が少ない。(哲学の歴史が女性蔑視的であることもあって、)哲学に向いているのは男性であるというステレオタイプも根強い。それを懸念して、最近はAffirmative Action (*2)の一環としてアカデミアに女性を増やす取り組みがなされていて、例えば Gendered Conference Campaign (GCC) では、ゲストスピーカーやイベントオーガナイザー、著者、雑誌編集者等に女性を含めることを推奨している。

こういう取り組みは、女性をトークン(象徴)として扱っているのではないかという懸念を生む。Affirmative Actionがなければ招待されたはずの男性が招待されないという不公平が生じれば、カンファレンスや専門誌の質に悪い影響を及ぼしかねない(と考えられている)し、選ばれた女性は、純粋に自分の功績で得たポジションをあたかもAffirmative Actionのおかげで勝ち得たように見られかねない。

著者は、こういう心配は無用だと言う。そもそもアカデミアには、純粋な業績主義はないし、純粋な業績主義は不可能なうえ望ましくもない。「女性であること」は、選ばれるべき妥当な理由であると言う。

まず、tokenism(女性を象徴として扱うこと)は間違っているのだが、仮に選ばれた女性が結果としてトークンと看做されようとも、Affirmative Actionは望ましい。そもそも参加する女性がイベントオーガナイザーの意図までコントロールすることはできないので、彼女がトークンかどうかなんて分からないし、女性をトークンとみなす向きはアカデミアの男女比に男女平等が達成されるまでは続く。

それに、女性が増えれば、哲学は男性の分野であるというステレオタイプに対抗できる。哲学界隈の男性優位は、男性だけのカンファレンスや男性だけで編集された専門誌が溢れていることからもよくわかる。こういう状況は、意識的であれ無意識的であれ、哲学は男性向けの学問なのだというステレオタイプを助長させていると考えられている。こういうステレオタイプは、女性哲学者の自信を失わせたり、競争の激しいアカデミアに残ることを躊躇させたりする。

数々の証拠にも関わらず、無意識の偏見の存在それ自体やその程度は議論が続いている。存在自体は認められている場合でも、critical reflectionやself-scrutinyの伝統を持つ哲学の分野ではその影響が少ないと思われがちだ。でも、仮に無意識の偏見がなくて、男性優位が過去と現在の明らかな性差別によるものだとしても、男女のバランスがより均整であれば、性別を目立ちにくい要素にすることで現在の女性哲学者や未来の女性哲学者により公平な機会を与えることになるし、性別に関係なく哲学者になれるというメッセージを与えることができる。

The levelling the playing-field argumentという考えもこれを支持する。(職業としての哲学界は既に女性蔑視的なので、女性であるというだけで、イベントや雑誌編纂に招待されづらい。結果として女性は男性より置き去りにされやすいので、界隈に女性を増やそうとする試みは、ゲタを履いていた男性のゲタを取り払うに過ぎない、という考え。)

純粋な業績主義は存在しない。簡単な例を挙げると、哲学者は、言及する問題の重要性、明確さ、正確さや議論の妥当性、深さ、広さ、オリジナリティ、洞察などで能力を披露することができるが、そうして発表された論文を画一的・客観的に評価する指標は存在しない(ピア・レビューが現時点では最良の指標だろう)。また、大陸哲学と分析哲学では用いる手法や価値を置くものが異なるなどの違いもある。だから純粋な業績主義は存在し得ない。そもそも、女性であるだけでカンファレンスに招待されるわけもなく、その女性哲学者が法学者でも肉体労働者でもなく哲学者だからカンファレンスに招待されるのだ。必要な要件は満たしている。仮にGCCがなかったとして、カンファレンス開催者は、最良の哲学者だけを招待するのだろうか?ネットワークなどの問題もあって、カンファレンスに必ず最良の哲学者だけが呼ばれることはないのだから、GCCを考慮することも真っ当なやり方である。また哲学は対話で前進するので、コミュニティは哲学者にとって非常に重要である。女性やアフリカンアメリカンをコミュニティに含めることは、現時点でマイノリティである存在をグループに呼び込むことができ、長期的視点で見れば、アカデミアの風土を変えることができる。

まとめると、(1)トークンとしての立場を受け入れることは公平さのルールに違反しないどころか、長期的には公平さを推奨することになる(2)トークンとしての女性はイベントのレベルを下げない(業績主義・Affirmative Action以外の正当な理由で、最良ではない哲学者を採用してもイベントのレベルが下がらないのと同じこと。)それどころか、女性の異なる視点が加わることで価値を付加するかもしれない。(3)トークンとしての女性の存在は、女性の仕事の価値を下げない。女性の仕事はAffirmative Actionの有無に関わらず既に低く見積もられている。女性哲学者が増えたら女性哲学者が適切に評価されるという保証はないが、女性哲学者の存在は、誰かが、女性が哲学に貢献できること・女性哲学者の能力を(女性であるというだけで)低く見積もっていることに気がつく機会となるかもしれない。

私はこれに賛成する。全ての学問・分野とはいかないが、アカデミアに限らず多くの社会的場面で当てはまると思う。例えば医師の世界はどうだろう。私が務めていた病院の複数のベテラン女性産婦人科医は、産婦人科に決めた理由として、外科系に進みたかったが腹部外科にロールモデルがいなかったことを挙げていた。ロールモデルの存在は、将来を選択する上で非常に重要である。今でこそ女子学生は多くの医学部で3-5割を占めるが、当時はさらに少ない。腹部外科は勤務時間が長いうえ手術で長期間立ち続けるなど非常に体力を要する専門科である、という、腹部外科医が避けては通れない問題に直面して腹部外科を選択肢から外す者もいるが、産婦人科だって、手術部位や手術パタンは腹部外科より少ないにせよ、しばしば長時間労働を強いられるのは今や誰もが知る事実である。お産の予測不可能性や未受診妊婦の飛び込み出産に伴うリスクは、交通外傷や腸管穿孔で昼夜問わず臨時手術に駆り出される外科医に似ている。それにも関わらず彼女たちが産婦人科を選んだのには、ロールモデルの不在や女性に腹部外科は無理だというステレオタイプの影響が少なからずあるのではないかと思う。

女性は、出産を理由に社会的進出を阻まれてきた。私はジェンダーが完全に社会的に造られたものだとは思わない。仮に全ての大人が女性への偏見をなくして、「女子は数学ができない」とか「男子は後から伸びる(ので現在の成績に見合わない高偏差値の大学を目指すべき)」とかいう呪いの言葉がなくなったとしても、もしかしたらオックスフォードの大学院で数学を専攻するのは男性が多いかもしれない。2005年に発表された男女のIQに関するかの有名な科学的な論文は強い顰蹙を浴びた。

Image result for male female IQ distribution

それを元に「男性は女性と比べてIQが高い;つまり生物学的に数学と科学に向いており、アカデミアに男性が多いのは当然」という結論を導き出す男性も後を絶たないが、現在では多くの科学的な反論(*3)にあっており、事態は混沌としている。現状の社会が男女不平等である以上、「生物学に」男女差を説明するのは困難極まりない。それを考慮すると、最終的に社会がどうあるべきなのかを現時点で決めるのは非常に難しい(仮に男性が女性より優れているとした場合に、数学科に入学する学生の性別比を半分ずつとすべきか、純粋に学力だけで採用するべきかなどの構造的な話。特定の女性をCEOにするか否かというような個人的な話ではない。)。

しかしながら、多くの人々は+- 2S.D.に当てはまらないところに群集している。そこで男女の違いを云々というのは、無意味だと思う。特に医師のような、あらゆる人々と密に関わり個々人を包括的に理解する必要のある集団は、多様であればあるだけ良い。昨今の日本の医学部における男女差別問題は、世界各地で驚きをもって迎えらたが、これをバネにより多くの分野で女性がロールモデルを見出せるような社会になると良いと思う。

(*1) Journal of Applied Philosophy,Vol. 32, No. 2, May 2015

(*2) Affirmative Action: 教育や雇用において、歴史的・構造的に差別されてきたグループに属する人を積極的に登用する行為。イギリスではpositive discriminationとも呼ばれる。

(*3-1) ある文化横断研究で40カ国の少年少女を対象に数学のスコアを測定したところ、男女平等が達成されている国(リプロダクティブヘルスや社会参画が整備されている国)ではジェンダーギャップが消失した。また、米国における最も優れた男女の数学者の割合は、1980年以降著明に縮小したとの論文もある。

(*3-2) ジェンダー類似仮説 gender similarities hypothesisを支持する論文も増えてきている。男性と女性の脳の機能は殆ど変わらない、という仮説だ。いくつかの例外(例えばボールを投げるとか)およびセクシュアリティに関するものを除いては、男性と女性の振る舞いはかなり似ている、というもの。男女の脳で大きさに違いがあるとされていた部位は、男女差ではなく個人差だったこともわかっている。男性は女性より生物学的に闘争的であるというのすら、曖昧になってきている。