「障害(Disability)」に関する歴史は長い。ヒポクラテスはOn the Sacred Diseaseで、障害は神聖なものではなく他の病気と同じように原因があるはずだ、と述べているし、アリストテレスは身体的障害のある子どもが生きないで済む法律があれば良い、と書き残している(Politics VII)。
Advancing medical professionalismという研究報告会に参加した。Royal College of PhysiciansとHumanitiesの研究センターが共催したもので、プロジェクト発足は2005年に遡る。医師の職業的役割における自己の位置付けや達成感、そこから生じる価値観は、モチベーションとして非常に重要なものだが、いかにして現代医療の現実を医学生や若手医師に教育すべきだろうか?という疑問から研究を重ね、チームは次の7つの重要な側面に焦点を当てた:
プロジェクトのメンバーがかなり強調していて、参加者の関心も高かったのは、doctor as a person ひとりの人間としての医者という立場だった。医師はしばしば、「医師としては…」という言葉遣いをする。病院に限らず、時にそれは、教会だったりスポーツジムだったりする。医師としての生活と、個人的な生活は、結構境界が曖昧だったりする。こういう場面では、医師の「自分はこうである」というself identificationと、社会からの期待 social expectationとに焦点を当てることで、professionalとしてどう振る舞うべきかが見えてくる。
また、ひとりの人間としての医師としてのself-careにも強く重点が置かれていた。Doctor as healerにも関わることなのだが、共感や慈悲のこころを十分に発揮するためにはまずは自分のケアをする必要がある。医師に限らず他者をケアする職業では自己犠牲が美徳とされがちな印象を抱くが、時代は変わってきているのだろう。
Can We All Be Feminists? は昨年9月に出版された本で、複数の女性のインターセクショナリティについて扱っている。フェミニズムについてよく言われるのが、フェミニズムとして語られる内容の多くが、白人、中流階級、シス・ジェンダー(身体の性と性自認が一致している女性)、健常者、のもので、そのほかの女性の体験を無視している、というもの。人種、階級、移民か否か、性的指向、文化、障害の有無などによって、社会からの構造的抑圧や差別の程度が全く異なる。この本もそういう具体例を取り扱っていて、この概念を理解する上で非常に参考になった。
私自身もアジア人で女性であるというインターセクショナリティを持つので、この概念の意図するところはよくわかるし、自分と異なるインターセクショナリティについてもその存在を理解することはできるが、時にインターセクショナリティが包括する内容の幅広さに驚かされる。例えば、歴史的な背景・妊娠など性別による理由・貧困など金銭的理由により米国の黒人女性は太りやすいため、太っていることは米国における黒人女性のアイデンティティであり、フェミニズムは肥満を受け入れなければならない、というもの。医師には「病気」として捉えられる状態も、ある文脈では「個性」になるというのは、障害についての Bad-Difference and Mere-Difference や、Social model, Medical model, value-neutral model and Welfare model のことを想起させられる。
これに関連して、この前読んだのはSally Haslanger の Gender and Race: (What) Are They? (What) Do We Want Them to Be? という論文。
この論文は、「人種とは何か」「ジェンダーとは何か」という問いに対するアプローチとして、コンセプト的、記述的、分析的な手法を紹介した上で、分析的な手法(人種やジェンダーの定義を「こういうコンセプトがある目的は何か」というような問いに置き換えて考える)で論を進めてゆく。「女性とはXXX」というとき、必ずその定義からもれてしまう女性がいるということに留意しつつ(例えば「女性とは子宮をもっていること」と定義すれば、子宮摘出術後の女性やトランスジェンダーの女性は女性ではないことになってしまうし、「女性とは社会から構造的に抑圧されているひと」といえば、米国の黒人男性は警察からの暴力に遭いやすいという点で女性に含まれてしまう)、ざっくりした概念として、人種やジェンダーを、「被抑圧」「生殖」「社会的に不利な立場」によって特徴付けられる社会的なコンセプトとして説明しようとする。こうしてざっくり説明することで、虐げられているグループに光を当てたら、社会の不平等の解決に貢献できるのでは、というのが背景にある考え。人種もジェンダーも社会的に作られた便宜的なもの(どちらも自分では選べないのに、どんな風に表現するかには抵抗したり変えたりできる。そして、ジェンダーも人種も階層的。)で実際には存在しないのにも関わらず、私たちの政治的・個人的アイデンティティを形成している、と言及した上で、ここで重要なのは、どのような単語を使うかとか、どういう単語を使うべきか誰が指示するかとかの問題ではなくて、私たちが私たち自身をどのように捉えるか、そして我々が何者なのかと言う問題である、と言う。論文の中で彼女は、男性とか女性とか、人種とか、そういうカテゴライズは全部拒絶して、規範的推論を導くこと、critical social agentsを鼓舞することに貢献することを提案する。
Three Cheers for the Token Woman! (*1) という論文を読んだ。これは、アカデミアの哲学カンファレンスに「形だけ」女性を増やすことの有用性についての論文。哲学者なので、アカデミアの哲学カンファレンスに限った話になっているが、広く多くの事柄に当てはめられる内容だと思う。
The levelling the playing-field argumentという考えもこれを支持する。(職業としての哲学界は既に女性蔑視的なので、女性であるというだけで、イベントや雑誌編纂に招待されづらい。結果として女性は男性より置き去りにされやすいので、界隈に女性を増やそうとする試みは、ゲタを履いていた男性のゲタを取り払うに過ぎない、という考え。)